さんちゃんとまいちゃんのお気楽旅行編 パート2

源 義家

2008年1月17日

源 義家のお墓


◎源 義家(みなもと の よしいえ)生誕 長暦3年(1039年)死没 嘉承元年7月4日(1106年8月4日)
・平安時代後期の武将で、河内源氏の源頼信の孫。
・八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)という呼び名でも知られる。
・後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、そして室町幕府の足利尊氏の祖先に当たることから後世に英雄視され、様々な逸話が生み出される。
・比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥守となったとき、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求めるが、朝廷は「私戦」として官符を下さなかった。
・ その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許されたが、中御門右大臣・藤原宗忠はその日記『中右記』承徳2年10月23日条に「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世人、甘心せざるの気あるか」と書く。
・その活動時期は摂関時代から院政時代に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。
・このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。
・生前の極位は正四位下。

●出生と没年
・生没とも諸説あってはっきりしないが、68歳で死去とする史料が多く、またその没年は、史料としての信頼性が最も高い『中右記』1106年(嘉承1)7月15日条から逆算し、1039年(長暦3)の生まれとする説が有力である。
・源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壷井(現大阪府羽曳野市壷井)の香炉峰の館に生まれたという説、鎌倉で生まれたとの説もあるが、いずれも伝承の域を出ない。
・幼名は不動丸、または源太丸。
・七歳の春に、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。

●前九年の役から下野守まで
・鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、1057年(天喜5)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験。
・その後出羽国の清原氏の応援を得て父頼義はやっと安倍氏を平定する。
・1063年(康平6)2月25日に義家はその勲功を賞され従五位下出羽守に叙任される。
・尚、この年、義家は在京しており美濃において美濃源氏の祖源国房と合戦している。
・1070年(延久2)義家は下野守となっており、陸奥国で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえたことが『扶養略記』8月1日条に見える。
・当時の陸奥守は大和源氏の源頼俊で、即位間もない後三条天皇が源頼俊らに北陸奥の征服を命じており、北陸奥の征服自体は成功したが、この藤原基通の件の為か大和源氏源頼俊には恩賞はなく、その後の受領任官も記録には見えない。

●白河帝の爪牙
・1079年(承暦3)8月 美濃国で源国房と闘乱を起こした右兵衛尉源重宗(清和源氏満正流4代)を官命により追討。
・1081年(永保1)9月14日に検非違使とともに園城寺の悪僧を追補 (『扶桑略記』)。
・その年の10月14日には白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、その園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と二人でそれぞれの郎党を率いてを護衛したが、このとき本官(官職)が無かったため関白・藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。
・さらに帰りが夜となったので義家は束帯(朝廷での正式な装束)から非常時に戦いやすい布衣(ほい:常服)に着替え、弓箭(きゅうせん)を帯して白河天皇の乗輿の側らで警護にあたり、藤原為房の『為房卿記』には、「布衣の武士、鳳輦(ほうれん)に扈従(こしゅう)す。未だかつて聞かざる事也」と書かれている。
・同年12月 4日の白河天皇の春日社行幸に際しては義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護する。
・この段階では公卿達の日記『水左記』などにも「近日の例」と書かれるようになり、官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われはじめる。
・のちの「北面の武士」の下地にもなった出来事である。この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍している。

●後三年の役
・1083年(永保3)に陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して後三年の役がはじまる。
・ただしこの合戦は朝廷の追討官符による公戦ではない。
・朝廷では1087年(寛治1)7月9日に「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定したりもし、『後二条師通記』にはこの戦争は「義家合戦」と私戦を臭わせる書き方がされている。
・後三年の役において動員した兵は、私的郎党として動員した近畿から美濃国、そして相模国の武者と、清原氏勢力外の陸奥南部の「国の兵共」。「地方豪族軍」として陸奥国奥六郡の南三郡を中心とした清原清衡の軍と、そもそもの発端の当事者であり、後三年の役では後半に加勢したらしい出羽国の吉彦秀武の軍からなると思われる。
・最大兵力は、戦場となった地元出羽国の吉彦秀武の軍、次ぎに当事者清原清衡の軍であり、国守軍は陸奥南部の「国の兵共」を加えたとしても、それほど多かったとは思えない。
・1087(寛治1)11月に義家は出羽国金沢柵にて清原武衡、清原家衡を破るが、「私戦」としたため恩賞はなく、かつ翌年1088年(寛治2)正月には陸奥守を罷免される。

●弟義綱
・1091年(寛治5)6月 義家の郎党藤原実清と源義綱の郎党藤原則清が、河内国の所領の領有権を争い、義家・義綱兵を構える事件がおき、京を震撼させた。
・弟義綱はその年1091年(寛治5)の正月に、藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆を努めた他、翌1092年(寛治6)2月には藤原忠実が春日祭使となって奈良に赴く際の警衛、1093年(寛治7)12月には、源俊房の慶賀の参内の際に前駆を努めるなどが公卿の日記に見えるが、義家の方は1104年まで、そうした活動は記録にない。
・1093年(寛治7)10月の除目で、義綱は陸奥守にに就任。
・翌年の1094年(寛治8)には出羽守を襲撃した在地の開拓領主・平師妙(もろたえ)を郎党に追捕させ、従四位上に叙されて官位は兄義家と並び、翌年の1095年(嘉保2)正月の除目で、事実上陸奥よりも格の高い美濃守に就任する。
・その美濃における比叡山領荘園との争いで僧侶が死亡したことから、比叡山側は義綱の配流を要求して強訴に及ぶが、関白藤原師通は大和源氏の源頼治と義綱に命じてそれを実力で撃退する。
・このときも比叡山延暦寺・日吉神社側の神人・大衆に死傷者が出、比叡山側は朝廷を呪詛した。
・比叡山は天台密教の総本山であり、呪詛の最大の権威であって、朝廷にとっては最大の精神的脅威であったと思われる。
・それに追い打ちをかけたのが、その4年後の1099年(承徳3)6月に、当事者の関白藤原師通が38歳で世を去ったことであり、朝廷は比叡山の呪詛の恐怖におののいた。この件の影響か、このあと義綱が受領に任じられることはなかった。

●院昇殿から没まで
・後三年の役から10年後の1098年(承徳2)にやっと受領功過定を通って、4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許された。
・1101年(康和3)7月7日、次男対馬守源義親が、鎮西に於い太宰大弐大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下す(『殿暦』)。
・しかし義家がそのために派遣した郎党の首藤資通(山内首藤氏の祖)は1102年(康和4)2月20日、義親とともに義親召問の官吏を殺害してしまう。
・12月28日ついに朝廷は源義親の隠岐配流を決定する。
・その後『中右記』によると、1104年(長治1)10月30日、義家・義綱はそろって延暦寺の悪僧追捕を行っているが、これが義家の最後の公的な活躍となる。
・1106年(嘉承1)には別の子の源義国(足利氏の祖)が、叔父の新羅三郎源義光等と常陸国において合戦し、6月10日、常陸合戦で源義家に実子義国を召し進ぜよとの命が下される。
・義国と争っていた源義光、平重幹等にも捕縛命令が出る。 
・そうした中で義家は、1106年(嘉承1)7月15日に68歳で没する。


またまた登っております この先に 源 義家のお墓が今夜だ〜けは〜愛のマ〜タド〜ル♪

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